主要事件判決6  「膀胱癌細胞ベクター・進歩性事件」

主要判決全文紹介
《知的財産高等裁判所》
審決取消請求事件
(膀胱癌細胞ベクター・進歩性事件)
-平成22年(行ケ)第10203号 平成24年5月28日判決言渡-

判示事項
(1)取消事由1(引用発明1と本願発明1との一致点及び相違点の認定の誤り)について
審決がした本願発明1と引用発明1の一致点、相違点の認定に誤りはない。

(2)取消事由2(相違点に係る構成の容易想到性の判断の誤り)について
(2-1)また、被告は、本願明細書の9節では、他の実施例には存在する「結果と考察」欄が記載されていない上に、他の実施例では過去形で実験結果が記載されているのとは対照的に、現在形で実験結果が記載されているし、原告が真に実験を行っていれば、乙第6号証のように容易にその結果を本願当初明細書に記載できたはずであって、作用効果の記載(段落【0078】)は、いわば願望を記載したものにすぎない旨を主張する。
確かに、本願明細書(甲7)の他の実施例に係る8、10、11節中には「結果と考察」欄がある一方、9節には同欄がなく、9節では現在形で実験結果が記載されている。しかしながら、段落【0078】を含む9節には曲がりなりにも実験結果が記載されているのであって、記載中の項目立ての体裁や文章の時制が異なるからといって、架空の実験を記載したものと断定することはできない。
(2-2)しかしながら、前記のとおり、本件優先日当時、外来の遺伝子を導入して腫瘍(癌)を傷害するのは、プロモーターの活性が不十分であるなどの理由のため困難であるというのが当業者一般の認識であった上、H19遺伝子の生物学的機能は完全には解明されていなかったものである。また、引用例3の表1は、種々の腫瘍においてH19遺伝子の発現の有無の状況が異なることを示すものであることが明らかであるところ、同表には、7例の腎臓のウィルムス腫瘍(癌)のうち4例でH19遺伝子の発現が見られ、また4例の腎細胞癌(腫瘍)ではH19遺伝子の発現が見られなかった旨の記載があるが、引用例6の118頁には、ウィルムス腫瘍細胞株であるG401ではH19遺伝子の発現が見られない旨の記載があり、同一臓器の癌(腫瘍)であっても、H19遺伝子の発現には差異があることが分かる。そうすると、引用例3にH19遺伝子の発現の状況が記載されているとしても、この記載に基づく発明ないし技術的事項を単純に引用発明1に適用して、腫瘍(癌)の傷害という所望の結果を当業者が得られるかについては、本件優先日当時には未だ未解明の部分が多かったというべきである。したがって、引用発明1に引用例3記載の発明ないし技術的事項を適用しても、本件優先日当時、当業者にとって、引用発明1のα-フェトプロテインプロモーター等の発現シグナルをH19遺伝子の調節配列のうちのH19プロモーターと置き換え(相違点(i))、標的となる癌(腫瘍)として膀胱癌を選択する(相違点(ii))ことが容易であると評価し得るかは疑問であるといわなければならない。
(2-3)引用例4はH19遺伝子の5'隣接領域の遺伝子配列等を開示する論文にすぎず、引用例5もH19遺伝子のプロモータードメインやエンハンサードメインの構造等を開示する論文にすぎず、引用例6も、H19遺伝子に係るゲノミック・インプリンティングの機序等を明らかにするために、H19プロモーターをメチル化してその活性がどの程度抑制されるかという事項等を開示する論文にすぎないのであって、被告主張によっても、H19遺伝子のプロモーターが本件優先日当時に当業者に公知であったことを示すために審決が引用したにすぎないものである。そうすると、引用例4ないし6に記載された発明ないし技術的事項を引用発明1に適用して、相違点(i)及び(ii)に係る構成に至る動機付けに欠けるし、かように適用したとしても、本件優先日当時、当業者において相違点(i)及び(ii)を解消することは容易でないのであって、引用例4ないし6によって前記ウの結論が左右されるものではない。
したがって、引用発明1に引用例3ないし6記載の発明ないし技術的事項を適用しても、本件優先日当時、当業者にとって、相違点(i)、(ii)に係る構成に想到することが容易であるといい得るかは疑問である。
(2-4)本願明細書の段落【0078】には、具体的に数値等を盛り込んで作用効果が記載されているわけではないが、上記①、②は上記段落中の本願発明1の作用効果の記載の範囲内のものであることが明らかであり、甲第10号証の実験結果を本願明細書中の実験結果を補充するものとして参酌しても、先願主義との関係で第三者との間の公平を害することにはならないというべきである。
そうすると、本願発明1には、引用例1、3ないし6からは当業者が予測し得ない格別有利な効果があるといい得るから、前記(1)の結論にもかんがみれば、本件優先日当時、当業者において容易に本願発明1を発明できたものであるとはいえず、本願発明1は進歩性を欠くものではない。

事件の骨組
1.本件の経緯
平成10年10月 4日  国際特許出願
発明の名称「腫瘍特異的細胞傷害性を誘導するための方法および組成物」
特願2000-514993号
平成18年 1月18日  拒絶査定
平成18年 4月24日  審判請求、 不服2006-7782号
平成22年 1月14日  特許請求の範囲を補正
平成22年 2月 9日  審決
「本件審判の請求は、成り立たない。」

2 本願発明の要旨
(1)補正後の特許請求の範囲:
本件補正後の請求項の数は13であるが、そのうち本件補正後の請求項1(本願発明1)の特許請求の範囲の記載は次のとおりである。
【請求項1】 
細胞傷害性の遺伝子産物をコードする異種配列に機能的に連結されたH19調節配列を含むポリヌクレオチドを含有する、腫瘍細胞において配列を発現させるためのベクターであって、前記腫瘍細胞が膀胱癌細胞または膀胱癌である、前記ベクター。

3.本件審決の理由の要旨
本願発明1は、その優先日当時、下記引用例1に記載された発明(引用発明1)に甲第3ないし6号証(引用例3ないし6)に記載された事項を組み合わせることで、当業者が容易に発明できたもので進歩性を欠く。
【一致点】
「細胞傷害性の遺伝子産物をコードする異種配列に機能的に連結された調節配列を含むポリヌクレオチドを含有する、腫瘍細胞において配列を発現させるためのベクター」である点。
【相違点】
・相違点(i)
該調節配列が、本願発明1は、’H19’の調節配列であるのに対し、引用発明1は、H19の調節配列ではない点
・相違点(ii)
該腫瘍細胞が、本願発明1は、膀胱癌細胞又は膀胱癌であるのに対し、引用発明1は、膀胱癌細胞又は膀胱癌と特定されていない点

4.当事者の主張
(4-1)原告の主張
(1)引用発明1と本願発明1との一致点及び相違点の認定の誤り(取消事由1)
-略-
(2)相違点に係る構成の容易想到性の判断の誤り(取消事由2)
(2-1)これらのとおり、引用例3ないし6においては、H19プロモーターやH19エンハンサーが膀胱腫瘍細胞で導入遺伝子を高度に発現させる能力があることや、H19遺伝子の調節配列を用いてベクターを作成し、これを癌治療に用いることは記載も示唆もされていない。
しかるに、審決は、H19プロモーターが導入遺伝子を発現しなかった例や、H19エンハンサーが不活性であった例等に関する記載を無視し、H19遺伝子の調節配列が活性を示す例のみを引き合いにして、相違点(i)に係る構成の容易想到性を肯定したものであって、審決の判断には誤りがある。
(2-2)前記のとおり、H19エンハンサーは腫瘍組織の別に応じて活性を有し(組織特異的)、本件優先日当時、H19遺伝子の調節配列を利用したベクターが膀胱癌の治療に効果があるかは不明であった。本願発明1の発明者は、H19プロモーター、H19エンハンサーを含む調節配列により、腫瘍細胞を傷害し得る異種配列(導入遺伝子)を発現させるベクターが、膀胱癌の治療に効果を有するという知見を初めて見出したのであって、かかる作用効果は引用例からは予測し得ない格別顕著なものである。
(2-3)なお、原告は審判の段階で参考資料を提出して本願発明1の顕著な効果を説明したが、審決は出願後に公表された論文等であるとしてこれらを参酌しなかった。本願明細書には本願発明1のベクターが奏する効果を認識できる記載がされているから、上記参考資料を参酌しなかった審決は誤りである。すなわち、審判での参考資料1、2、4、10(甲10、11、13、19)によれば、ジフテリア毒素(DT-A)に機能的に連結されたH19調節配列を含む本願発明1のベクターは、膀胱癌治療に対して格別顕著な優れた効果を奏するとともに、副作用が見られず安全性が高いということができる。

(4-2)被告の主張
(1)取消事由1に対し
-省略-
(2)取消事由2に対し
(2-1)H19遺伝子は癌(腫瘍)で特異的に発現するものである一方、必ずしも癌の全てにおいて発現するというわけではないことは、引用例3の表3にあるとおり、既に知られている事項である。当業者が癌の治療にH19調節配列を利用しようとするときは、まずはH19遺伝子の発現している癌を治療の対象とするのが通常である。導入遺伝子発現において非常に重要な要素であるプロモーターが機能しているという事実は、膀胱腫瘍細胞において導入遺伝子を発現させる上でH19プロモーターに対する興味を抱かせるものであって、当業者の興味を何ら阻害するものではない。H19遺伝子の発現が見られない癌や腫瘍細胞HepG2、G401があるとしても、H19調節配列を利用することは何ら阻害されない。審決がH19遺伝子が発現しなかった例として、HepG2やG401を認定しなかったとしても、進歩性判断の結論に影響するものではない。
(2-2)本願当初明細書の実施例である9節(段落【0077】、【0078】)では、膀胱腫瘍モデルマウスにおけるH19調節配列を使用した遺伝子療法の一般的な方法が記載されているにとどまり、マウスに実際に投与する際の具体的手法等について記載されていない。実験結果についても、「マウスの実験群内の膀胱腫瘍は、対照群内の膀胱腫瘍と比較し、腫瘍の大きさが減少し壊死する」という記載がなされているにとどまり、具体的な腫瘍の計測結果や壊死の状況は一切記載されておらず、実験結果を客観的に確認できない。そして、9節では、他の実施例には存在する「結果と考察」欄が記載されていない上に、他の実施例では過去形で実験結果が記載されているのとは対照的に、現在形で実験結果が記載されており、実際に実験が行われたか疑問である。原告が真に実験を行っていれば、容易にその結果を本願当初明細書に記載できたはずであって(P.Ohana ほか著「USE OF H19 REGULATORYSEQUENCES FOR TARGETED GENE THERAPY IN CANCER」、2002年(平成14年)発行Int.J.Cancer Vol.98、645~650頁、乙6参照)、本願明細書の作用効果の記載(段落【0078】)は、いわば願望を記載したものにすぎない。原告が参考文献として提出する文献がいずれも本件出願後のものであるのは、この証左である。
(2-3)かかる具体性を欠いた記載をもって発明の作用効果を開示したものとすることは、何らの実験による確認無しに、憶測のみで多数の可能性について特許出願し、出願後に確認を行い初めて効果があると判明した部分について、その後参考文献や実験成績証明書と称してデータを提出することにより特許権を取得することを許す結果となって、出願当初から十分な確認データを開示する第三者との間に著しい不均衡を生じ、先願主義の原則にも悖るし、発明の公開の代償として独占権を付与する特許制度の趣旨に反する。

                   (要約 たくみ特許事務所 佐伯憲生)

  原告  イッサム リサーチ ディヴェロップメント カンパニー オブ ザ ヘブリュー ユニバーシティ オブ エルサレム エルティディー

  被告  特許庁長官