主要事件判決12 「セルロースアシレート-補正却下・進歩性事件」

主要判決全文紹介
《知的財産高等裁判所》
審決取消請求事件
(セルロースアシレート-補正却下・進歩性事件)
-平成23年(行ケ)第10178号 平成24年2月22日判決言渡-

判示事項
(1)本件補正の許否
ア 法17条の2第4項に基づく補正は、法36条5項の規定により請求項に記載した発明を特定するために必要な事項を限定するものであって、その補正前の当該請求項に記載された発明とその補正後の当該請求項に記載される発明の産業上の利用分野及び解決しようとする課題が同一であるものに限られる(法17条の2第4項2号)。すなわち、補正前の請求項に記載した発明を特定するために必要な事項を限定するものであることが必要である。
イ 本件補正事項に係る「ソルベントキャスト法によりセルロースアシレートフイルムを製造するためのセルロースアシレート」とは、セルロースアシレートがフイルムという物品を製造するための原料であり、そのフイルムの製造方法がソルベントキャスト法であることを特定するものであるが、補正前の請求項1には、セルロースアシレートが何らかの物品を製造するための原料であることや、その物品の製造方法に関して何ら特定する事項がない。よって、本件補正事項は、補正前の請求項1に記載した発明を特定するために必要な事項を限定するものには該当しない。
そうすると、本件補正事項を含む本件補正は、法17条の2第4項の規定に違反するものであるとして、これを却下すべきものであるとした本件審決の判断に誤りはない。

(2)容易想到性
ア 本願発明と引用例に記載された発明とは、上記のとおり、セルロースアシレートの特定の方法が異なり、直接比較することができない。
しかし、いずれも、セルロースアシレートを2位、3位及び6位のアシル置換度の関係という、共通するパラメータを用いて特定するものであるから、引用例の別紙図1に本願発明に特定される数値範囲を反映させてみると、別紙図2に示す塗りつぶし部が本願発明の数値範囲に対応する。
別紙図2によれば、本願発明(塗りつぶし部)と引用例の特許請求の範囲に記載された発明(斜線部)とは、重複する範囲を有する。
イ 引用例は、発明の詳細な説明において、実施例1ないし3と比較例1ないし3により、実施例1ないし3が優れたフイルムであることを示すものである。しかし、引用例の特許請求の範囲に記載された発明は、セルロースアシレートに関して「2位、3位および6位のアセチル置換度の合計が2.67以上であり、かつ2位および3位のアセチル置換度の合計が1.97以下」の範囲を特定するものであり、その範囲のセルロースアセテートが製造可能であることは、引用例の記載及び技術常識に照らして明らかであるから、引用例に特定される要件を満足する範囲の中で、セルロースアシレートを特定すること、またそのように特定したセルロースアシレートを用いて引用例に記載された方法によってドープを調製し、フイルムを製膜してみることは、当業者が容易に想到し得ることである。
そして、本願発明がそのような引用例の記載から当業者が容易に発明できるセルロースアシレートを包含していることは明らかである。

(3)発明の効果について
本願明細書の発明の詳細な説明の表2には、本願発明は、比較例1ないし3と比較して、溶液の安定性や粘度、フイルムの面状、ヘイズ値において、良好な性能を奏するものであることが記載されている。
しかし、表2に示される効果は、表1に示される特定の条件においてドープを調製した場合に奏されるものであって、そのうちフイルムの面状やヘイズ値が良好であることは、溶液(ドープ)の安定性が良好なことや40℃の粘度が低いことに基づくものであり、ドープからの製膜性の善し悪しがフイルムの性能に影響を与えると解される。
そして、セルロースアシレート溶液(ドープ)の安定性に関して、引用例(【0004】【0005】)には、冷却工程と加温工程を有する方法によると、従来の方法では溶解することができなかった、セルロースアセテートと有機溶媒の組合せであっても、溶液を調製することができること、冷却溶解法により得られたセルロースアセテート溶液には、安定性が低いとの問題があること等の記載がある。引用例の上記の記載によると、ドープの安定性は、ドープに使用される有機溶媒の種類や溶解方法に影響を受けるものと認められる。また、ドープの粘度は、溶解されるセルロースアセテートの分子量やドープ中の濃度にも影響を受けることや、フイルムの性能は、乾燥方法などの製膜条件によっても影響を受けるものである。
したがって、本願明細書の実施例において確認された効果も、実施例に示されるような特定の方法で調製されたドープや、それを用いて製膜されたフイルムについて認めることができるものというにとどまり、他の条件の調製方法でドープを製造した場合にも、同じ結果が得られるとは必ずしもいえない。よって、そのような特定の条件においてドープを製造した場合の効果は、本願発明のセルロースアセテートという化学物質それ自体の効果であって、かつ、その効果が格別顕著であるということはできない。



事件の骨組
1.本願の経緯
平成16年10月26日  特許出願、 特願2004-311370号
発明の名称「セルロースアシレート、セルロースアシレート溶液及びその調製方法」
特願2001-8388号の分割出願
平成20年 2月22日  拒絶査定
平成20年 3月26日  審判請求 不服2008-7402号
平成20年 4月23日  手続補正書 (この補正を「本件補正」という。)
平成23年 4月19日  審決  本件補正を却下し、
「本件審判の請求は、成り立たない。」と決定

2 本願発明の要旨
(1)本件補正前の特許請求の範囲:
【請求項1】 
2位、3位のアシル置換度の合計が1.70以上1.90以下であり、かつ6位のアシル置換度が0.88以上であるセルロースアシレート。
【請求項2】
アシル基がアセチル基である請求項1に記載のセルロースアシレート。
-以下、省略-
(2)本件補正後の特許請求の範囲:
【請求項1】 
ソルベントキャスト法によりセルロースアシレートフイルムを製造するためのセルロースアシレートであって、2位、3位のアシル置換度の合計が1.70以上1.90以下であり、かつ6位のアシル置換度が0.88以上であるセルロースアシレート。
【請求項2】
アシル基がアセチル基である請求項1に記載のセルロースアシレート。
-以下、省略-

3.本件審決の理由の要旨
① 本件補正事項は、平成18年法律第55号による改正前の特許法(以下「法」という。)17条の2第4項の規定に違反するものであるから、特許法159条1項で読み替えて準用する同法53条1項の規定により却下すべきものであり、
② 本願発明は、下記引用例に記載された発明に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるから、特許法29条2項の規定により特許を受けることができないというものである。
引用例:特開平11-5851号公報(甲5)

4.当事者の主張
(4-1)原告の主張
(1)取消事由1(本件補正を却下した判断の誤り)について
本件審決が引用する審査基準は、審査対象の発明と先行技術の発明との同一性を判断するための新規性に関するものであって、補正要件の審査の基準に新規性の審査基準を適用することはできない。
すなわち、補正却下の対象となった補正要件(法17条の2第4項2号)の趣旨は、補正できる範囲を、先行技術文献調査の結果等を有効利用できる範囲内に制限することである。言い換えると、補正の適否の審査では、審査迅速化の観点から、補正前後の発明が減縮に該当するか否かが問われるのである。このように、補正の適否の基準は、おのずから、発明との同一性を判断する新規性の審査とは性質が大きく異なる。よって、補正要件の審査の基準に、新規性の審査基準を適用することはできない。
なお、特許請求の範囲の減縮に関する特許庁の審査基準によれば、特許請求の範囲の減縮に該当する具体例として、①択一的記載の要素の削除、②発明特定事項の直列的付加、③上位概念から下位概念への変更が記載されているところ、本件補正事項は、上記②又は③に該当する。
さらに、本願発明は、フイルムの製造という用途と密接に関係した化合物「セルロースアシレート」の発明(用途限定の発明)であり、フイルムの製造という用途を記載したとしても、引用文献の調査も必要とせず、審査のやり直しとなることもない。このような観点からも、本件補正事項は限定的減縮の趣旨に沿った補正である。
本件補正却下に対する原告らの弁明の機会が奪われている。すなわち、本件補正の適否に関し、審尋(甲11)にある前置報告書と本件審決とでは理由が異なっており、異なる理由で補正を却下するのであれば、その理由を原告らに示した上で、反論の機会を与えるべきである。
(2)取消事由2(本願発明の進歩性に係る判断の誤り)について
本願発明の技術的思想は、「セルロースアシレートにおいて、2位及び3位のアシル置換度の合計を1.70~1.90とし、かつ6位のアシル置換度を0.88以上とすること、すなわち、特定の2位及び3位の合計アシル置換度と、特定の6位のアシル置換度とを組み合わせ、セルロースアシレートの溶液粘度を低下させ、平面性を高める」ということにある。他方、引用例に記載された発明は「2位、3位および6位のアセチル置換度の合計を2.67以上とし、かつ2位および3位のアセチル置換度の合計を1.97以下とし、セルロースアセテート溶液を安定化させるとともに、厚み方向のレタデーションを小さくする」というものである。
引用例からは、6位のアセチル置換度、2位及び3位のアセチル置換度の合計のうち一方が特定できたとしても、他方のアセチル置換度を予測することはできない。

 本件審決は、本願発明の効果について、フイルム面状(フイルム表面の平滑性)、40℃粘度及びヘイズ値という効果については、そもそも、セルロースアシレートフイルムあるいはセルロースアシレート溶液に関するものであると認定し、本願発明の効果を否定したが、溶液の粘度及びヘイズ値は、セルロースアシレート自体の特性であって、フイルムの特性ではない。本件審決の本願発明の効果の認定には誤りがある。

(4-2)被告の主張
(1)取消事由1(本件補正を却下した判断の誤り)について
仮に、原告らの上記主張が許されるとしても、以下のとおり、原告らの主張には理由がない。
本件補正前の請求項1記載の発明は、化合物(物の発明)についてのものであるところ、本件補正事項を付加することで、物の発明である上記化合物の特定事項(例えば、化学構造)が限定されるものではない。本件補正事項により、本件補正前のセルロースアシレートの用途が特定されたからといって、物の発明としての特定事項が限定されたとはいえない。すなわち、本件補正の前後において物の発明としては何ら変わるものではないし、本件補正事項は、本件補正前の発明を特定するために必要な事項を限定するものでもない。
したがって、本件補正事項は特許請求の範囲を減縮するものではないとした本件審決の判断に誤りはない。
審査基準の適用については、物の発明では、用途発明(すなわち、物自体は既知であったとしても、用途に特異性があることにより、新規性が認められる発明)が成立する場合があり、用途限定の付加により特許請求の範囲を減縮するものと解される場合があるところ、本件審決は、セルロースアシレートという物の発明である補正後の化合物は用途発明でないことを、審査基準を引用して述べたにすぎない。
原告らは、補正却下に対する反論の機会が奪われていると主張する。しかし、特許法は、補正却下の決定に際し、反論の機会を与えなければならないとは規定していないし(50条ただし書、159条2項)、しかも、審尋においても本件審決においても、本件補正が適法でない理由として挙げているのはいわゆる目的要件違反であって、両者の理由は異なるものではない。原告らの上記主張が、手続違背という取消事由を新たに主張するものであるとしても、本件において、審判手続を含む特許出願審査手続の適正を貫くための基本的な理念を欠くような適正手続違反はない。
(2)取消事由2(本願発明の進歩性に係る判断の誤り)について
本願発明は、化合物に関する発明であり、原告らの主張する本願発明の技術的思想(解決課題)は本願発明とは何ら関係がない。
また、別紙図1の斜線部のほぼ中央には、引用発明に相当するもの(引用例において実施例2として示される点)が存在するところ、引用例の実施例2の位置を斜線部内で移動すること、すなわち、引用発明の「2位および3位のアセチル置換度の合計」あるいは「6位のアセチル置換度」の数値をそれぞれ引用例に記載された当該数値の範囲内で増減してみることは、当業者であれば格別困難でない。
しかも、引用例には、「2位および3位のアセチル置換度の合計」の値を「1.91」よりも小さい範囲とすることについて、これを阻害する要因は何ら見当たらないのであるから、引用発明における「2位および3位のアセチル置換度の合計」の値を「1.91」よりも小さい値とすることも容易に想到できる。
また、甲6及び甲9に添付の実験成績証明書は、いずれも溶液又はフイルムの物性に関するものであって、セルロースアシレート自体に関するものではないから、上記のとおり、セルロースアシレートという「化合物」である本願発明の容易想到性の判断に何ら影響を及ぼすものではない。仮に、甲9に示された溶液粘度からセルロースアシレート自体の有機性の程度を推測し得るとしても、甲9からは、置換度の変化に応じた溶液粘度の緩やかな変動の傾向を理解し得るのみである。
なお、「本願発明のセルロースアシレートを含有する溶液」が経時安定性に優れる、あるいは実用可能なドープ濃度領域において粘度が低いなどの特性を有し、また、「本願発明のセルロースアシレートから製造されたフイルム」が面状に優れるなどの特性を有するとしても、このような溶液及びフイルムの特性は、セルロースアシレートのみに依存するものではなく、溶液であれば溶剤、添加剤などの配合成分の種類及び添加量にも依存し、また、フイルムであれば製造方法にも依存するものであって、本願発明のセルロースアシレートという化合物自体の特性とはいえない。

                   (要約 たくみ特許事務所 佐伯憲生)

  原告  株式会社ダイセル
  富士フイルム株式会社
  被告  特許庁長官