主要事件判決10 「シクロヘキサン誘導体液晶組成物-新規性事件」

主要判決全文紹介
《知的財産高等裁判所》
審決取消請求事件
(シクロヘキサン誘導体液晶組成物-新規性事件)
-平成23年(行ケ)第10115号 平成24年2月8日判決言渡-

判示事項
(1)発明の新規性について
特許法は、発明の公開を代償として独占権を付与するものであるから、ある発明が特許出願又は優先権主張日前に頒布された刊行物に記載されているか、当時の技術常識を参酌することにより刊行物に記載されているに等しいといえる場合には、その発明については特許を受けることができない(特許法29条1項3号)。
しかるところ、本願発明が引用発明を包含するものであることそれ自体は争いがなく、本願発明は、前記(1)アに記載のとおり、特定の新規な化合物をその特許請求の対象とするものであるから、引用例に本願発明が記載されているといえるためには、引用例の記載及び本件出願日当時の技術常識を参酌することにより、当業者が、本願発明に包含される引用発明を製造することができたといえなければならない。
(2)本願発明の新規性について
ア 本件審決は、前記(3)アに記載の実施例1に記載されたものと同様の手順で引用発明が合成されたものとみるのが自然である旨を説示する。しかしながら、上記実施例1の手順cのヒドロホウ素化-酸化の反応では、ビニル基の二重結合が反応するため、Rがビニル基等の二重結合を有する化合物を出発物質とした場合には目的とする引用発明を得ることができない。したがって、本件審決の説示には、誤りがあるというほかない。
イ 他方、引用例には、前記(3)イに記載のとおり、スキーム3として、1位にビニル誘導体を、2位に2個のフッ素原子を、4位に置換基(その末端基は、n-プロピル基である場合を含む。)を有するシクロヘキサン化合物を製造する方法が記載されているといえる。他方、引用発明は、1位に置換基(1′-ビニル-シクロヘキサン-4′-イル基)を、2位に2個のフッ素原子を、4位にn-プロピル基を有しているから、スキーム3により合成された上記化合物と引用発明とでは、シクロヘキサン環上の置換基の位置及び置換基の構成が相違するにとどまる。
したがって、引用例に記載された引用発明を合成しようとすれば、当業者は、スキーム3において、出発物質であるシクロヘキサノン化合物の4位の置換基をn-プロピル基とし、工程aのグリニャール試薬として、ベンジルオキシメチルマグネシウムブロミドに代えて[4-[(ベンジルオキシ)メチル]シクロヘキサン-1-イル]マグネシウムブロミドを使用し、工程gにおいてPh3P=CHRの具体例としてウィッティヒ試薬であるPh3P=CH2(メチレントリフェニルホスホラン。乙1)を使用することにより、引用発明を得ることができると認識するものといえる。そして、このことは、前記(3)ウに記載のとおり、引用例には引用発明の誘電異方性及び光学異方性の値が明記されており、したがって引用発明の発明者が引用発明を現実に製造していたことによっても裏付けられる。
(3)小括
以上によれば、引用例に接した当業者は、引用例の記載(スキーム3)に基づき、そこに実施例14として記載されている引用発明を製造することができたものといえるから、引用発明を包含する本願発明は、本件出願日前に頒布された刊行物である引用例に記載されているというべきであり、本願発明には新規性が認められないといわざるを得ない(特許法29条1項3号)。そして、引用発明に基づき本願発明の新規性を否定した本件審決の判断は、引用例に関する本件審決の説示には誤りがあるものの、これと結論を同じくするものであって、是認することができる。



事件の骨組
1.本願の経緯
平成22年 7月17日  特許出願、    特願2010-162348号
発明の名称「シクロヘキサン化合物及び該化合物を含有した液晶組成物」
平成22年12月24日  拒絶査定
平成23年 1月19日  審判請求  不服2011-1277号
平成23年 3月16日  審決  「本件審判の請求は、成り立たない。」

2.本件審決の概要
本願発明は、米国特許第6475595号明細書(甲7。2002年(平成14年)11月5日発行。以下「引用例」という。)に実施例14として記載された化合物(化合物14。以下「引用発明」という。)を包含するから、特許法29条1項3号の規定により特許を受けることができない。
引用発明:化合物14(本願化合物の4位のR1が、n-プロピル基の化合物)

 引用例の実施例1の化合物が1-(3,3-ジフルオロ-4-ペンチルシクロヘキシル)-4-エトキシ-2,3-ジフルオロベンゼン(以下「実施例1化合物」という。)であり、本願発明ではないが、引用例の実施例1に記載された手順aないしeの反応が有機合成化学分野において広く使用されている合成手法であり、実施例1化合物の製造においてのみ使用できる合成手法ではないことが当業者に明らかであるところ、①「シクロヘキセン系ネマチック液晶化合物の合成と物性」田中靖之、竹内清文、高津晴義、第12回液晶討論会講演予稿集(1連G11)(昭和61年9月25日発行。以下「周知例1」という。)には、この場合の手順a及びbと同じ記載があり、特開平5-279279号公報(以下「周知例2」という。)には、手順cないしeと同じ記載があるから、実施例1化合物のペンチル基の代わりに4-ビニルシクロヘキシル基を、実施例1化合物の4-エトキシ-2,3-ジフルオロベンジル基の代わりにn-プロピル基を、それぞれ想定することで、当業者が上記の手順で引用発明の製造が可能であると認識するのが当然である、②周知例1及び2の記載に基づき、「1位に二重結合を有するシクロヘキセニルシクロヘキサン化合物」を手順cの開始化合物(引用例の上記手順の最後に記載される「適宜の前駆体」)として採用することで、当業者が引用発明の製造が可能であると認識するのが当然である、③引用例には物性値の記載まであることを考慮すると、引用発明は、引用例に記載された手順と同様にして合成されたものとみるのが自然である

3.原告の主張
(1) 引用発明が本願発明に包含されるものであることは、原告も争わないが、引用例には、引用発明の製造方法が記載されておらず、また、引用例に記載の化合物の合成手段は、本願発明の合成を示唆するものではないし、引用発明を合成できるものではないばかりか、下記のとおり、他の文献によっても引用発明の製造方法が明らかであるとはいえない。そして、製造方法の記載は、本願発明の新規性及び進歩性を推認するのに重要であるから、本願発明は、引用例に記載された発明とはいえない。
(2) 前記(1)①の判断についてみると、化合物を得られると認識することと実際にこれを合成(製造)することとの間には大きな隔たりがあり、実務家ならば、引用例の記載から引用発明の製造が可能であるとは認識できない。引用例の実施例1の化学式から前記(1)①に記載の元素や官能基の置き換えをすることは、机上では容易に推定できるものの、この推定を現実に実施できるようにすることは、まさに発明そのものに該当する。
化合物を得られると認識することと実際にこれを合成(製造)することとの間には大きな隔たりがある。しかも、引用発明では、R4がビニル基の不飽和化合物となっているところ、引用例の実施例1の手順cのヒドロホウ素化-酸化反応は、二重結合の箇所で進行するため、シクロヘキサン環にビニル基が結合した化合物では、シクロヘキセニル基のみならずビニル基も反応してしまい、引用発明を製造することができない。
(3) 被告は、本件訴訟に至ってから、引用例のスキーム3及び4を参照し、適宜の出発物質を用い、周知の反応手順に従い、技術常識を考慮することで、引用発明を合成できると理解できる旨を主張するに至ったが、そこで使用されている前駆体の1つであるシクロヘキサン環の1位にベンジルオキシメチレン基を有し、かつ、4位にヒドロキシル基を有する物質(4-[(ベンジルオキシ)メチル]-1-シクロヘキサノール。以下「B物質」という。)は、一般的に入手が困難であるばかりか、直ちに合成可能なものではない。したがって、通常の創作能力を発揮できるものであっても、引用例のスキーム3及び4によって引用発明を合成できるように記載されているとはいえない。
(4) 引用例に物性値が記載されているかといって、引用発明を製造できることにはならない。

4.被告の反論
(1) 本件審決は、周知例1にはスキーム1における化合物(Ⅲ)の合成反応として実際にその化学反応が進行し得ることが記載されていることから、引用発明の合成方法の手順a及びbが実施可能であることが裏付けられている旨を説示するものであって、引用発明の合成手順を周知例1により想定したものではない。したがって、周知例1の出発物質と引用例の実施例1化合物の出発物質との相違及び出発物質の合成上の課題は、そもそも存在しない。
(2) 引用例の実施例1に記載された手順aないしeの反応は、有機合成化学分野において広く使用されている合成手法であり、3,3-ジフルオロシクロヘキシル基を有する化合物の製造においてのみ使用できる合成手法ではないことが当業者に明らかである。
(3) 引用例のスキーム3及び4は、最終的に末端基の二重結合に誘導できるアルコール性水酸基を、ベンジル基で保護した化合物を用いることにより、骨格のシクロヘキシル基をジフルオロ化する反応(工程bないしd。実施例1の手順cないしeと同じ。)の影響は受けないが末端基に二重結合を有する目的化合物を得る合成手法を示しているから、そこには、目的化合物の骨格を合成し、その骨格のシクロヘキシル基にフッ素置換基を導入する反応と二重結合を有する末端基を形成する反応とが、一連の流れとして記載されているといえる。したがって、引用例の記載に基づいて末端基に二重結合を有する化合物である引用発明を合成しようとする当業者であれば、引用例の実施例1に示される反応手順に加えて、引用例のスキーム3及び4を参照し、適宜の出発物質を用い、周知の反応手順に従い、技術常識を考慮することで、引用発明を合成できると理解できることは、明らかである。
(4) 引用例には、「以下の本発明に係る化合物は、相当する前駆体を用い(実施例1と)同様に得られる。」との記載がある上に、実際に引用発明が得られていることは、引用発明の物性値が記載されていることから明らかである。

                   (要約 たくみ特許事務所 佐伯憲生)

  原告  オルガノサイエンス株式会社
  株式会社CHIRACOL
  被告  特許庁長官