主要事件判決9  「電界放出デバイス用炭素膜-実施可能要件事件」

主要判決全文紹介
《知的財産高等裁判所》
審決取消請求事件
(電界放出デバイス用炭素膜-実施可能要件事件)
-平成22年(行ケ)第10247号、平成23年3月24日判決言渡-

判示事項
(1) 実施可能要件の意義
法36条4項は、「発明の詳細な説明は、…その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に、記載しなければならない」と規定している(以下「実施可能要件」ということがある。)。
特許制度は、発明を公開する代償として、一定期間発明者に当該発明の実施につき独占的な権利を付与するものであるから、明細書には、当該発明の技術的内容を一般に開示する内容を記載しなければならない。法36条4項が上記のとおり規定する趣旨は、明細書の発明の詳細な説明に、当業者が容易にその実施をすることができる程度に発明の構成等が記載されていない場合には、発明が公開されていないことに帰し、発明者に対して特許法の規定する独占的権利を付与する前提を欠くことになるからであると解される。
そして、本件のような物の発明における発明の実施とは、その物を生産、使用等をすることをいうから(特許法2条3項1号)、物の発明については、その物を製造する方法についての具体的な記載が必要であるが、そのような記載がなくても明細書及び図面の記載並びに出願時の技術常識に基づき当業者がその物を製造することができるのであれば、実施可能要件を満たすということができる。
(2) 本願発明に係る炭素膜の製造方法について
以上総合すれば、本願明細書には、本願発明1に係る炭素膜の製造方法が記載されているところ、記載された条件の中で、当業者が技術常識等を加味して、具体的な製造条件を決定すべきものであり、これにより本願発明1に係る炭素膜を製造することは、可能であるというべきである。
(3) 本件審決の判断について
(3-1) なお、被告は、炭素膜についての実施可能要件を論ずるに当たっては、請求項1で特定された炭素膜の材質、構造あるいは製造方法の異同が本質といえるものであって、その用途の相違は格別問題とならないと主張する。しかし、対象としている用途が異なることに起因して着目している炭素膜の構造や特性が異なっており、本願発明では、アモルフォス構造等の中に秩序立ったsp3結合炭素(ダイアモンド構造)を非常に少量、均一性をもって分散させることに着目するのに対し、甲1刊行物及び甲2刊行物は、均一な多結晶ダイアモンド層を形成することに着目していることからみて、膜構造について着目している点がそもそも異なり、かつ、実際の膜構造も異なっているのであるから、甲1刊行物及び甲2刊行物を実施可能要件判断のための技術水準の認定に用いることは、相当でない。
よって、甲1刊行物及び甲2刊行物に基づき技術水準の認定をした本件審決の上記②の判断は、誤りである。
(3-2) なお、本件審決の上記③の判断は、全てのパラメータの開示が必要であることを述べたものではなく、炭素膜の形成に影響を及ぼす他のパラメータの存在を指摘して、開示条件の記載が少ないことを指摘したものにすぎないと解される。そして、被告が主張するような無数の試行錯誤があるわけではなく、当業者にとって過度な試行錯誤とまではいえない。
(4) 被告の主張について
(4-1) 被告は、当業者が、一般的なダイアモンド状炭素(DLC)膜の製造方法の域を出ていない本願明細書の発明の詳細な説明の記載に基づいて、本願発明1に係る「電界放出デバイス用炭素膜」を製造できることが保証されることにはならないと主張する。
しかし、本願明細書に記載された複数の条件の全範囲で、本願発明が製造できる必要はなく、技術分野や課題を参酌して、当業者が当然行う条件調整を前提として、【0010】ないし【0012】に記載された範囲から具体的製造条件を設定すればよい。
(4-2) 被告は、本件意見書に添付したランシートに記載された3つのサンプルについて、4つの製造条件(パラメータ)がカバーする範囲は、本願明細書の発明の詳細な説明(【0010】~【0012】)に記載された製造条件(パラメータ)の範囲の一部分でしかないと主張する。
しかし、本来、物の発明において、適用可能な条件範囲全体にわたって、実施例が必要とされるわけではない。物の発明においては、物を製造する方法の発明において、特許請求の範囲に製造条件の範囲が示され、公知物質の製造方法として、方法の発明の効果を主張しているケースとは、実施例の網羅性に関して、要求される水準は異なるものと解される。

事件の骨組
1.本件特許の経緯
平成10年 7月29日  特許出願、
発明の名称「電界放出デバイス用炭素膜」
平成18年 4月26日  拒絶査定
平成18年 7月26日  不服審判請求   不服2006-16055号
平成22年 3月23日  請求成り立たない旨の審決

2.本件審決の理由の要旨
本件審決の理由は、要するに、本願明細書の発明の詳細な説明は、当業者が本願発明1ないし3、本願発明6ないし8に係る発明を実施することができる程度に明確かつ十分に記載したものとはいえず、平成14年法律第24号による改正前の特許法(以下「法」という。)36条4項に規定するいわゆる実施可能要件を満たしていないから、特許を受けることができない、というものである。
なお、本件審決は、その判断の前提として、本願発明の製造工程は、下記ア、イの刊行物(以下「甲1刊行物」、「甲2刊行物」という。)に記載されている従来の「ダイアモンド状の炭素あるいはCVD(化学蒸着)ダイアモンド膜」の製造工程と実質的に同じものであり、これにより従来のものを超える本願発明に係る炭素膜の製造を保証するものではないこと等を挙げている。

3.当事者の主張
3.1 取消事由1(本願発明1の実施可能要件違反の認定判断の誤り)について
(1) 原告の主張
(1-1) 本件審決は、「…炭素膜の形成に影響を及ぼす他のパラメータ(例えば、反応器の大きさや、メタンの流入量等)については、何ら規定されていない」と認定したが、パラメータを全て列挙しなければならないとするのであれば、出願人に過度の負担を強いるものである。
実施可能要件に対する本件審決のような過度な要求は、発明の保護をないがしろにするものであって、差し控えるべきである。
(1-2) 甲1刊行物及び甲2刊行物の技術分野は、本願発明に係る「電界放出デバイス用炭素膜」とは全く異なるものであるから、これらの刊行物と本願発明の実施例とを対比して相違点を探索し、実施可能要件違反を認定判断するのは的外れである。
また、甲1刊行物及び甲2刊行物は、電界放出デバイス用炭素膜を対象物とする本願発明とは全く技術分野を異にするものであるから、たまたま本願発明の製造パラメータの1つが従来技術の範囲内に入るパラメータを有するとしても、本願発明が従来技術の製造工程を含むとする本件審決は、失当である。
(1-3) 本願発明に係る炭素膜の主たる構造は、独特な組合せからなる膜であって、特有の作用効果を奏するものである。したがって、当該特有な作用効果を得るために、従来とは異なる本願発明の上記の炭素膜の成分を前提にして、本願発明に係る炭素膜を再現することは、当業者が本願明細書(【0024】【0025】【図9】)のような技術常識を考慮しながらメタン濃度、温度管理、圧力管理、時間管理等の実施条件を探索することにより、過度の試行錯誤をすることなく可能であるから、本願発明を容易に実施することができるものである。
(2) 被告の主張
(2-1) 炭素膜の形成に影響を及ぼすパラメータについて規定されていないとした本件審決の説示は、本願発明に係る炭素膜の製造方法についての説明が、本願明細書の発明の詳細な説明(【0010】~【0012】)の記載箇所に限られていることを指摘したものであり、原告が主張するような、製造方法に必要なあらゆるパラメータを全て列挙することを要求したものではない。
(2-2) 以上のとおり、本願明細書又は図面には、「電界放出デバイス用炭素膜」に関する従来技術であるダイアモンド状炭素(DLC)膜の製造方法が記載も示唆もされていないから、本願明細書の炭素膜の製造方法が、一般的なダイアモンド状炭素(DLC)膜の製造方法の域を出ていないものであるか否かを検証するために、職権により、ダイアモンド状炭素(DLC)膜の製造方法に関する技術水準を示すものとして甲1刊行物及び甲2刊行物を採用したものである。
(2-3) 一般に、物の発明の場合、「物」が異なればその「物」の製造方法も異なるものとして区別されるが、製造方法が異なるものとして区別されることと、その「物」の製造方法についての記載内容が実施可能要件を充足することとは、無関係であり、単に「物」が従来のものと区別されることをもって、その「物」の製造方法についての記載内容が実施可能要件を充足することにはならない。
ただし、例外として、「物」の発明が例えば機械や電気の分野における物品の物理的組合せで特定されるような場合、その物品の組合せから技術常識をもってすれば、その製造方法が類推できる場合もある。
しかしながら、本願発明1に係る「電界放出デバイス用炭素膜」は、それを特定する請求項1の記載からも把握できるように、その膜構造はもとより、その材質や成分によって特定されたものではなく、製造された炭素膜から得られる光学的特性であるラマンスペクトルのピーク位置及び形状を示す数値限定により特定しようとする、いわゆるパラメータ発明といえるものである。そして、本願明細書は、本願発明1ないし3に係る炭素膜のUVラマンスペクトルを示し、炭素膜の可視ラマンスペクトルを示しているにすぎない。このようなパラメータによって特定される本願発明1が、前記した例外に該当しないことは明らかであり、その製造方法がいかなるものかに関しても、当業者が、炭素膜の製造方法に係る技術常識をもってしても類推できるものではない。
そして、本願発明1に係る炭素膜を再現するためには、一般的なダイアモンド状炭素(DLC)膜の製造方法に従って、まず、独特な組合せからなっている炭素膜を製造し、その製造された炭素膜の試料のラマンスペクトルを測定し、そのスペクトルが所望なものとなっているか否かを確認し、所望のものとなっていなければ、メタン濃度(エ)、フィラメント温度(ク)、基板温度(ケ)、堆積圧力(コ)等の製造条件(パラメータ)を変更し、再度、行わなければならない。それを繰り返すと、仮に、上記4つの各製造条件(パラメータ)について、それぞれ10個の値を選定したとすると、その場合の組合せの数は、最大で10の4乗(1万通り)という膨大なものとなる。
3.2 取消事由2(本願発明2、3、6ないし8の実施可能要件の判断の誤り)について
--- 省略 ---
(要約 たくみ特許事務所 佐伯憲生)

  原告 アプライド ナノテック ホールディングス インコーポレーテッド
  被告 特許庁長官