主要事件判決6  「抗ガングリオシド抗体、引用例細胞系の分譲可否事件」

主要判決全文紹介
《知的財産高等裁判所》
審決取消請求事件
(抗ガングリオシド抗体、引用例細胞系の分譲可否事件)
-平成22年(行ケ)第10029号、平成22年10月12日判決言渡-

判示事項
① 本件は、特許法29条1項3号の「頒布された刊行物に記載された発明」に該当するかどうかという事案である。
ところで、上記にいう「刊行物に記載された発明」とは、刊行物に記載されている事項又は記載されているに等しい事項から当業者(その発明が属する技術の分野における通常の知識を有する者)が把握できる発明をいう、と解するのを相当とするところ、本件においては、本願発明が「L612として同定され、アメリカン・タイプ・カルチャー・コレクション(American Type Culture Collection)にATCC受入番号CRL10724として寄託されているヒトのBリンパ芽腫細胞系」であるのに、本願優先日前に刊行された引用例1及び2には「L612を分泌する細胞系」と記載されているだけで、ATCC受入番号の記載がないことから、引用例1及び2における上記記載だけで「刊行物に記載されているに等しい事項」といえるかという
ことを検討する必要がある。
② 引用例1及び2記載のL612細胞系と本願発明に係るL612細胞系とは、・・・(中略)・・・からみて、両者は同一のものであると認められる。
他方で、引用例1及び2には、ATCCの寄託番号などL612細胞系の内容を特定するに足る記載はなく、また、そもそも細胞系を言葉や化学式などで完全に表現することはできず、引用例1及び2にもそのような記載はないものと認められる。したがって、引用例1及び2に記載された事項のみによっては、引用例1及び2にL612細胞系の発明が記載されているということができない。
しかし、L612細胞系が、本願優先日前に、引用例1及び2の著者から分譲され得る状態にあれば、L612細胞系の内容が裏付けられ、引用例1及び2にL612細胞系の発明が記載されているということができるものと認められ、この点につき当事者間に争いがない。
そうすると、本訴における争点は、L612細胞系が、本願優先日前に引用例1及び2の著者から分譲され得る状態にあったか否かに集約されるものである。
③ 上記記載によれば、細胞系のような生物学的研究材料について論文等で発表した著者は、希望する研究者に対し、同材料を提供することが学術研究の社会における慣習であることが認められる。また、この点についても、当事者間に特段争いがない。
ただし、こうした学術研究の社会における慣習についても、論文等で発表した著者に対し、第三者による生物学的研究材料の分譲の要求に応じることを強制するものとまでは認められない。
そうすると、論文等で発表した著者が上記の慣習に従うか否かは、基本的に各著者の意思に依存するものというほかはない。そして、これを本件についてみると、引用例1及び2の著者が、上記慣習に反し、L612細胞系について、本願優先日前に第三者から分譲の要求があっても応じない意思を有していたものであれば、本願優先日前に第三者が引用例1及び2の著者からL612細胞系を入手し得なかったことになり、逆に応ずる意思を有していたのであれば、本願優先日前に第三者が引用例1及び2の著者からL612細胞系を入手し得たことになる。
④ 以上のとおり、甲15には、引用例1の(A博士以外の)4人の共同著者は、いずれもA博士の指揮下で研究を行った共同研究者であって、本願優先日前、彼らがL612細胞を第三者に頒布するためにはA博士の許可を得なければならなかったこと、A博士は、仮に当該4人の共同著者からL612細胞系を第三者に頒布するための許可を求められてもその許可を与える意図はなかったことが記載され、甲23には、本願優先日前、A博士自身も、仮に第三者からL612細胞系の提供を要求されても提供する意図はなかったことが記載されている。
また、甲16には、引用例2の(A博士以外の)6人の共同著者は、いずれもA博士の指揮下で研究を行った共同研究者であって、本願優先日前、彼らがL612細胞を第三者に頒布するためにはA博士の許可を得なければならなかったこと、A博士は、仮に当該6人の共同著者からL612細胞系を第三者に頒布するための許可を求められてもその許可を与える意図はなかったことが記載され、甲24には、本願優先日前、A博士自身も、仮に第三者からL612細胞系の提供を要求されても提供する意図はなかったことが記載されている。
そして、本訴において、A博士の上記各宣誓供述の信用性を疑わせるに足る事情はないため、同供述は信用できるものということができ、その結果、本願優先日前、L612細胞系は、第三者である当業者にとって入手可能ではなかったものと認められる。
⑤ 以上のとおり、本願優先日前、A博士(及び共同研究者)は、L612細胞系につき、第三者から分譲を要求されても、同要求に応じる意思はなかったものと認められ、その結果、L612細胞系は、第三者にとって入手可能ではなかったことになり、「引用例1、2に記載されるL612細胞系は、第三者から分譲を請求された場合には、分譲され得る状態にあったものと推定することができる」とした審決の認定判断は誤りであって、同誤りが審決の結論に影響を及ぼすおそれがあることは明らかである。



事件の骨組
(1)経緯
① 平成5年(1993年)2月26日の優先権(米国)を主張して、平成6年2月9日、名称を「抗ガングリオシド抗体を産生するヒトのBリンパ芽腫細胞系」とする発明について国際特許出願(PCT/US94/1469、特願平6-519027号)をした。
② 平成17年2月1日に拒絶査定を受けたので、これに対する不服の審判請求をした。特許庁は、上記審判請求を不服2005-8566号事件として審理し、平成21年9月14日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし、その謄本は同年9月29日原告に送達された。



(2)審決の内容
審決の内容は、別添審決写しのとおりである。その要点は、本願発明は、上記のとおり「L612として同定され、アメリカン・タイプ・カルチャー・コレクション(American Type Culture Collection)にATCC受入番号CRL10724として寄託されているヒトのBリンパ芽腫細胞系」とするものであるところ、本願優先日前に頒布された引用例1に「L612を分泌するヒトB細胞系」と、同じく引用例2に「L612を分泌する細胞系」と、各記載されているから、特許法29条1項3号にいう新規性及び同条2項にいう進歩性をいずれも欠き、特許を受けることができないというものである。



(3)原告の主張
① 取消事由1(引用例1及び2記載事項認定の誤り)
発明者及び共同研究者は、本件出願において新規性喪失の不利益を回避するため、優先日前は第三者からL612細胞系の提供を要求されても、提供しない意図であったし、事実提供していないのであるから、L612細胞系が優先日前に分譲し得る状態にあったとはいえない。したがって、審決が、「分譲され得る状態にあった」という前提によって「刊行物に記載された発明」と判断したことは誤りである。
② 取消事由2(L612細胞系が分譲され得る状態にあったと推定した誤り)
すなわち、これらの投稿規定や業界における慣習は、「投稿=分譲」と推定してよいことを裏付けるものではない。
③ 取消事由3(A博士の宣誓供述書の記載内容の判断の誤り)
審決は、(A博士の)投稿時の意思を問題にしているが、投稿時の意思よりも、仮に求められた場合に分譲する意図があるか否かの方がよほど重要な問題である。
(要約 たくみ特許事務所 佐伯憲生)

  原告 ザリージェンツ オブ ザ ユニバーシティ オブ カリフォルニア
  被告 特許庁長官