主要事件判決1  「水和物における技術常識事件」

主要判決全文紹介
《知的財産高等裁判所》
審決取消請求事件
(水和物における技術常識事件)
-平成21年(行ケ)第10180号、平成22年8月19日判決言渡-

判示事項
① 甲7文献が、特許法29条2項適用の前提となる29条1項3号記載の「刊行物」に該当するかどうかがまず問題となる。
ところで、特許法29条1項は、同項3号の「特許出願前に‥‥頒布された刊行物に記載された発明」については特許を受けることができないと規定するものであるところ、上記「刊行物」に「物の発明」が記載されているというためには、同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていることを要することはいうまでもないが、発明が技術的思想の創作であること(同法2条1項参照)にかんがみれば、当該刊行物に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその技術的思想を実施し得る程度に、当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。
特に、当該物が、新規の化学物質である場合には、新規の化学物質は製造方法その他の入手方法を見出すことが困難であることが少なくないから、刊行物にその技術的思想が開示されているというためには、一般に、当該物質の構成が開示されていることに止まらず、その製造方法を理解し得る程度の記載があることを要するというべきである。そして、刊行物に製造方法を理解し得る程度の記載がない場合には、当該刊行物に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要であるというべきである。
② 本件については、上記のとおり、本件発明6及び7における本件3水和物が新規の化学物質であること、甲7文献には、本件3水和物と同等の有機化合物の化学式が記載されているものの、その製造方法について記載も示唆もされていないところ、甲7の記載内容を検討しても、甲7文献には製造方法を理解し得る程度の記載があるとはいえないから、上記の判断基準に従い、甲7文献が特許法29条1項3号の「刊行物」に該当するというためには、甲7文献に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいて本件3水和物の製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要であるということになる。
③ この点、審決は、まず、甲5文献の開示内容から、4-アミノ-1-ヒドロキシブタン-1,1-バイホスホン酸モノナトリウム塩が生成していることが窺える等の事情があること、甲12ないし甲14の各文献の開示内容から、水和物の製法が周知であるといえること、及び本件3水和物が存在することは甲7文献に記載されていることを根拠に、当業者は、その塩を水溶液から晶出させることにより、甲7に記載の3水和物が得られること、・・・、本件3水和物を得ることができると考えるのが自然であると判断しているところ、その論理は必ずしも明確ではないが、・・・、これを善解すれば、甲7文献の記載を前提として、これに接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、甲5及び甲12ないし甲14の各文献に記載されている特許出願時の技術常識に基づいてその製造方法その他の入手方法を見いだすことができるものと判断したと解される。
しかし、甲5文献に記載の事項が公知の技術事項であるとはいえても、本件優先日当時の技術常識に属する事項であるとすることはできないというべきである。
したがって、上述のような甲5文献に記載された事項や甲5文献の実施例5の記載を根拠とする技術事項を、本件優先日当時の技術常識であるとする甲5文献に関する審決の判断は誤りであるというほかない。
④ 有機化合物においては、4水和物を加熱しても3水和物を経ないで2水和物が生成するものがあること、「順次離脱」の方法では3水和物を得られない有機化合物も存在すること、・・・、以上の事実が認められるため、有機化合物の水和塩結晶においては、甲12(理化学辞典)に記載の「結晶水は、加熱あるいは乾燥により離脱し、加熱あるいは乾燥の条件を強くすることにより、順次離脱する」ということが常に一般的に妥当するとは限らないと認められる。仮にそうでないとしても、上記の各文献に記載された内容及び上記見解書に記載された研究者の意見が存在することを考慮すれば、少なくとも、本件優先日当時、有機化合物の水和塩結晶に関して、甲12(理化学辞典)に記載の事項が技術常識であると断ずるのは相当ではない。
⑤ また,甲13及び甲14の各文献は、いずれも、特定の化合物の水和物の製造方法が記載されているにとどまるものであり、・・・・・、これらの記載から、具体的な製造条件を捨象して、一律に、「結晶水は、加熱あるいは乾燥の条件を強くすることにより、順次離脱する」ことが技術常識であるとの結論を導き出すことはできないというべきである。
⑥ 被告は、甲6実験証明書と甲10実験証明書に示されているように、実際に、甲5文献に記載されている本件ビスホスホン酸を水溶液中で水酸化ナトリウムで中和することにより得られた析出物を通常の乾燥条件で乾燥することにより、本件3水和物が得られているから、甲12文献の記載については、無機化合物及び有機化合物に限らず、各種の化合物の挙動についての一般的な説明であるとした審決の判断になんら誤りはないと主張する。
しかしながら、甲6実験証明書と甲10実験証明書の記載(甲17実験証明書も同様である。)は、本件優先日以後に行われた実験結果にすぎず、上記認定のとおり、技術常識とはいえない甲5及び甲12ないし甲14の各文献に記載された公知技術を前提として、本件ビスホスホン酸のフリー体を製造し、そこから、本件3水和物を得た実験結果であるから、それらは、甲5及び甲12ないし甲14の各文献の内容を知った上での試行錯誤の結果にすぎないものというべきである。したがって、甲6実験証明書と甲10実験証明書記載は、甲12文献記載の「順次離脱」が有機化合物の水和塩結晶における本件優先日当時の技術常識であるか否かの判断を左右するものではないというべきである。



事件の骨組
(1)経緯
① 原告は、平成2年6月11日,本件特許に係る出願(パリ条約に基づく優先権主張,1989年6月9日,米国)をし,
平成7年1月27日、特許第1931325号として設定登録を受けた。
② 被告は、平成20年4月8日,請求項6及び7にかかる発明は無効であるとする無効審判の請求をした。
③ 特許庁は,審理の結果,平成21年2月25日,本件発明6及び7を無効とする旨の審決をし,同年3月9日,その謄本を原告に送達した。
④ 原告は、請求項6及び7につき特許法29条2項に違反していることを理由としてこれを無効とする審決を受けたことから、その審決の取消しを求める事案である。
⑤ 本件の請求項6に記載の「4-アミノ-1-ヒドロキシブチリデン-1,1-ビスホスホン酸モノナトリウム塩トリハイドレート」は次の化学式で表される3水和物である。本判決文では、これを「本件3水和物」と略称している。
H2N-CH2CH2CH2-CR1R2-OH・3H2O
(式中、R1は-PO(OH)2を示し;R2は-PO(OH)(ONa)を示す。)



(2)原告の主張
① 取消事由1(条文解釈又は条文適用の誤り)
甲7に記載の発明を、同法29条2項が引用する同条1項3号にいう「刊行物に記載された発明」と認定した審決は、同法29条1項3号の解釈を誤り、適用できない条文を適用したから条文適用を誤っている。
② 取消事由2 [省略]
③ 取消事由3(甲5及び甲12ないし甲14についての技術常識の認定の誤り)
本件優先日当時に、有機化合物の水和塩結晶に関して、「結晶水は、加熱あるいは乾燥の条件を強くすることにより、順次離脱する」ことが技術常識であるとはいえず、ましてや周知であるとは決していえない。
④ 取消事由4~5 [省略]

                   (要約 たくみ特許事務所 佐伯憲生)

  原告 メルク・エンド・カンパニー・インクズ・エム・エス・デイー・オーバーシーズ・マニュフアクチュアリ  ング・カンパニー(アイルランド)
  被告 日本薬品工業株式会社